2007年10月

冬コミの申し込み葉書も無事届いて第一関門通過、の季節です。

今週末は各地で鉄道の日関連の行事が相次いでおりますが
連絡船関係では東京方面で動きがあるようです。

語りつぐ青函連絡船の会・特設ブログ「大雪丸模型修復プロジェクト」
http://blog.renrakusen.com/
で模型復元が行われていましたが、この度復元が完了し、10/13,14
日比谷公園で開催される「鉄道フェルティバル」JR北海道ブース内でお披露目されるそうです。

もう一つ。
摩周、八甲田、羊蹄の青函連絡船チョロQに引き続き大雪丸のチョロQもラインナップに登場。
100周年記念セットとしても販売されるようです。

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個別船舶シリーズ第二弾は「第十一青函丸」です。

・就航    1945年 10月 9日
・客室新設 1946年 9月 (デッキハウス船)
・海難沈没 1959年 9月26日
・旅客定員 (3等)333名
・船体色 黒
・総トン数 2850.71トン(就航時)/3142トン(1946年旅客設備新設)
・建造所 浦賀船渠
・船名識別表示 11/SCAJAP-No.S106/COALSINE JLLW
・終航後の状況
就航当初から進駐軍専用輸送船として活躍。
'54年9月26日に北海道を襲った台風15号により函館港内で沈没し、船長以下乗組員90名
全員が殉職した。
その後東洋海事工業(株)により浮揚工事が行われ(5750万円)'55年10月25日、同じく'54年
の台風15号により座礁沈没、1175名の犠牲者を出した洞爺丸と共に残存船体は一括売却にかけ
られ、東京の松庫商店が6310万円で落札。吉岡海事工業所で洞爺丸と共に解体処分された。


洞爺丸台風で唯一生存者がいない悲劇の船でした。
元々短期間で作り、戦時輸送に使われることを目的に簡素化された「戦標船」(戦時標準船)
だったため船体、ボイラー共に粗悪な材質の物で作られており、太平洋戦争末期に建造がスタートし
完成したのは終戦から3ヶ月後、物資の窮乏極まる昭和20年の秋でした。
その後、進駐軍専用船として指定され(後に一般客も乗船出来るようになった)9年間の間
青函航路に就航していました。

洞爺丸台風の時は上り1204便として進駐軍車両を満載し函館を出航したものの悪天候のため
函館山の裏手、穴潤沖で引き返し乗客を全員降ろした上で洞爺丸と一部貨車、車両を入れ替えた後
函館湾内で待機していたものの激浪に耐えきれず船体損傷により沈没したものと思われます。

第十一青函丸から洞爺丸に移乗し犠牲になった方の中に札幌の小学校の視察からの帰りだった
天間林村(現・七戸町)の小学校の先生5名も含まれていました。
その小学校は先生が5名しかいなかったため小学校から先生がいなくなってしまったそうです。

函館山の麓にある慰霊碑には第十一青函丸の船名プレートから切り取った船名が碑にはめ込まれています。

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